命を
死を
特別なものとして
扱わないことが出来てはじめて
ほんとうの意味で
命の価値がわかる。
生きる
死ぬ
殺す
長らく
命には価値がないと思ってきた
でもその答えに対して
どこか違和感もあって
そうじゃない部分も
少なからず自分の中にあって。
井上雄彦の言葉に触れて
その違和感が
ぐっと輪郭を帯びてきた。
まだ答えは出ないだろう。
無理に出す必要もない。
けども
ずっとそこに向き合っている。
頭の中では
命に価値がないと言いながらも
会社として事業として
誰かの命の
助けになりたいと願っている。
一貫性のない
自分の中の自分たち。
あと少し。
仕事を整える。
自分の向き合う時間を取りたい。
心と深く向き合うために
まずは体と向き合う。
心は奥にいる
心と対話するためには
体との対話は必須だと思う。
命とはなにか
生きて死ぬ
なぜそうなんだろうか
考える範囲で
考えることはもうしてきた
別の角度でアプローチする
だからいま
井上雄彦なんだと思う。
旅に出ようと思う。
この人の見てる世界を
追うことがきっと
自分が納得のいく答えへの
最短距離な気がする。
大前提として
概念に絶対の答えなんてない
だから井上雄彦を知ったところで
納得いく答えが見つかるとは
限らない。
そうなんやけど
井上雄彦とおれの
命の捉え方の方向性は
近い方なんだろう。
バガボンドを読めば
それくらいわかる。
表現をしたいと思った
ずっと
人が求めていることをベースに
なにかを作りつづけてる。
それがいちばん
喜んでもらえるし
それがビジネスだ。
おれの表現には
前提として『対象』がある
その対象は当然
ものによって違うんやけども。
そういう意味で言えば
このブログは唯一
いまのおれにとって
対象のない表現だけども
誰にも向けてないからこそ
そもそも表現でもない気がする
誰かに何かを伝えたいという
『想い』や『思想』を
形にするのが表現な気がする。
このブログは
『おれ』が
剥き出しになってるだけで
強いて言うなら
自分の頭と心の整理、
デトックスだ。
でも剥き出しな分
温度感は高いと思う
言葉を加工してないから。
もっと直接的な
もっと人間のでる
線
線なのかもしれない
線を
絵を描きたいと思う。
絵と言葉。
それがやりたい気がする。
心が整ってない
まだ絵を描くための
準備が整っていない。
整える。
今年のテーマに対して
ずっと向き合い続けてる。
3月でダメで
5月でダメで
6月こそはとがんばってる。
最善を尽くしてるけど
それでもまだ届かなくて。
でもダメだったのは
整える途中で
新しいアイデアが生まれるからだ
こっちにいったほうがいい
という声を
おれが決して無視しないからだ
そーやって
グアーーーーって
何回も方向修正してきて
3ヶ月も後ろ倒しになってる
最善を尽くしてる。
6月こそ整える。
もうすぐだ。
感覚的に目の前まできてる。
絵を描きたい。
絵を描こう。
あるいは陶芸や
粘土とかでもいい。
『言葉』だけを
ずっと扱いすぎてるから
違う表現がしたい。
ふにゃふにゃっと
ふわーーーっと
いいよな。
いつか芸大にいきたい
こーゆー感覚を
当たり前のように話せる
そんな人と出会ってみたい
表現の勉強とかよりも
そーゆー友達がほしいと願う。
きっとでも
表現を突き詰めていくと
出会うこともあるんだろう
まずは自分がそこにいく
命
高くも低くもない
ただそこにあるもの。
やっぱりそうだ。
でも人生は違う。
ストーリーがある
とくに人間には
人間がおもしろい
人間はやっぱり
人間そのものが
一番の娯楽だ。
ただ人間は重い
そーゆー性質を含めて
人間が好きだと思う。
井上雄彦にもっと触れたいと思う
井上雄彦に恋してる
恋ってこーゆー気持ちだな
その人自身はもちろん
その人の見てる世界を
そのまま見たいと思うし
その人の見てる世界も
すべて愛しいと思える。
おれは井上雄彦に恋してるのかぁ
好きだなぁ、この人
ほんといつか会いたいなぁ
もしほんとに
いつか会える日が来た時に
恥ずかしくない自分でいよう
時間をもらって
『すみません』
じゃなくて
今日のこの日を
『楽しみにしてました』
と
心から言える自分でいよう。
等身大で。
嘘偽りなく。
素直で
正直で
まっすくで。
人を
世界を
ありのまま
愛せる自分で。
図らずもだが
お互い坊主なのが
なんとなく嬉しいと思う。