小さな星がほらひとつ

物に対する愛着の話

初代ランニングシューズが、

10年間履き続けた

お気に入りの

ボロッボロのランニングシューズが、

ついにぶっ壊れた。

 

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物は、

物でしかないと考えるおれでさえ、

10年も履き続けたことに加え、

こんな見たこともないような

ぶっ壊れ方をした

こいつに対して

『愛着』を感じている。

 

逆に言えば、

おれは物に愛着を感じるまでに

10年要するのかもしれない。

 

愛着は

感謝を生んで

『ありがとう』

と思ったけど、

帰ってすぐに捨てた。

 

愛着を持つこと、

感謝することと、

使えるかどうかは

また別の話。

 

なんとなく考えたのは、

『愛着』というものは

コミュニケーションを経て

形成されるものなんだろう。

 

ミニマリストのおれにとって

『物』は、使う以上の意味や価値を

全く持っていないが、

 

『物』が好きな人や

『物』を集める人や

『物』に依存する人や

『物』を捨てられない人

 

なんかにとっては

『物』はきっと使うだけの

価値ではないのだろう。

 

というか、

なんなら『使う』ことさえ

しないこともあるだろう。

 

そういう人にとっては

もしかすると

『物』であっても、

買った瞬間から

『愛着』を持てるのかもしれないと

想像した。

 

案外、というか

きっとおそらく

おれみたいに『物』を『物』と

完全に割り切ってる人は

日本では珍しいほうで、

そーゆー人のさらに一部が

ミニマリストになるんだろうな。

 

知らんけど。

 

 

 

 

 

 

響という漫画に出てくる

女性の小説家が言ってた。

 

『わたしはもう描きたいものがないから

 きっともう小説は書けない。』

 

って。

 

そのフレーズを見て思ったのは、

おれは、

いつも書きたいことに溢れてる。

書くだけじゃなくて、

表現したいことに溢れてるって

気づいた。

 

鶴太郎さんが絵を描くように、

手塚治虫が漫画を描くように、

宮崎駿がアニメを創るように、

 

おれは今は

『事業』という

一つのことづくりを通して、

自己表現してると思う。

 

すべて自分で考えて

すべて自分でデザインして

すべて自分でカタチにしてる。

 

お客さんからもらえる

感謝の言葉は

おれの表現に対する

賞賛と考えてもいいと思う。

 

まだまだおれには

『やりたい事業』がたくさんある。

 

それは小説家の言葉で言うと

『書きたいこと』がたくさんある

のと同じなんだと思う。