小さな星がほらひとつ

ゲド戦記の話

主人公のアレンが

父親の王様を刺し殺した。

 

なぜかは

語られることがない。

 

 

 

 

 

 

 

テルーが

主題歌を歌った。

2番まで、ゆっくりと。

 

アレンは

テルーの歌を聴いて涙を流した。

 

テルーの歌で

なぜアレンが泣いたのか

よくわからない。

 

そこまで仲良くもなかったのに。。

 

 

 

 

 

 

 

アレンの意識が飛んで

悪い魔女の前で目が覚める。

 

目を覚ましたアレンに

見知らぬ魔女に出された

『紫色の液体』を

味見も毒味もせずに

一気に飲み干すアレン。

 

案の定

自白剤のような

毒だった

 

目が虚になり

悪い魔女の言いなりになるアレン

 

アレンよ

なぜ毒見も味見もせずに飲み干す。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

物語の終盤、

テルーが龍になり

魔女をやっつける

 

アレンが

テルー(龍)の背に乗り

2人だけでよくわからない原っぱへ

 

次のシーンでは

龍だったテルーが

急に人間テルーの姿に。

 

おいおい

龍から人間になるシーンを描けよ。

 

なぜそこを描かない?

吾郎や。

 

ストーリーを端折るのは

最悪許せたとして

そこは端折るなよ。

 

いきなりすぎて

一瞬シーンが理解できない。

 

終盤の

一番いいシーンで、だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悪いけど

批判したくないんやけど

『リアリティ』がない。

 

なぜ殺した。

なぜ泣いた。

なぜ毒見をしない。

なぜ味見もしない。

いつ変身した。

 

宮崎駿の息子

 

とかいう比較の前に

絵コンテの時点で

そんな描写を描けないところ

ダメだろ。

 

世界観を

どれだけ作り込んでも

ふとした瞬間に

『なぜ?』

を感じさせてしまうなら

その描写は描くべきだと思う。

 

一気に

すべてがフェイクに感じる。

 

作り込んでる世界観が

一気に作り物に感じてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

宮崎駿の作品にも

同じように説明を

端折っているところは山ほどある

 

でも

そういう細かい描写において

なぜ

と感じたことはない

 

おれは

それが

世界観に入らない

一番の理由なのではないかと思う。

 

テルーの声優は誰やろ

言葉に魂こもってない

台本読んでる感。

 

キャラに哀愁もない。

表情が乏しい。

 

色がきれいじゃない。

色が世界観をつくるのに。

 

緊迫感もない。

もののけ姫は

何回観てもドキドキするのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

賛否あるだろうけど

おれは否に立たざるを得ない。

 

命とか

心とか

光と闇とか

 

そーゆー深いテーマを描きたいなら

まずは

なんつーか

当たり前な基本だよな。

 

おれは

アニメーターではない。

 

だから

勝手に言ってごめんなさい。

それはごめんなさいよ。

 

でも、それでも、

これくらいなら

おれでもできんじゃね?

そんなことを思ってしまえる

クオリティだと思う。

 

シンプルに言うと

退屈でつまらない。

 

はじめての監督作品

ということを贔屓目に見ても

 

そんなことも

わかってない人が

今後よくできるとは思わない。

 

そう

宮崎駿が作ってきた

一貫性がないのだ

 

すべてに一貫性を通すのは

ほんとうに難しい

 

そう考えると

宮崎駿は

やはり天才だと思う

 

本気で

世界を変えようとしてる

狂気とも呼べる熱量がなければ

あんな作品は作れないはずだ。

 

やはりおれは

宮崎駿を心から尊敬する。

 

会ってみたいし

話してみたい

 

問題は

向こうに会う理由がないことだ

手紙を書こう

 

やってみて

できぬことはないはずだ。

 

シンプルで

力強い言葉を紡いでみよう。

 

時間をかけて。

 

そしておれはおれで

サービス詰めるのに

絶対に手を抜かない

 

おれはクリエイターだ。

 

仕事に誇りを持とう。

お客さんの目に触れるものすべてに

一貫性を通せるように

これからも努めようと思う。

 

戒めよう。

人の振り見て我が振り直せ

だわな。

 

細部まで詰める。

ストーリーで語る。

 

まぁそういうことだわな