小さな星がほらひとつ

性の話

※女性を不快にさせる恐れ大です。その際はすみません。

 

上野千鶴子さんは著書『女嫌い』の中で、男は女を、母と見るかトイレと見るか、二つしかない。

という。

 

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これは日本特有の『性否定の意識』からくるそうだ。

 

男は女を、結婚してもいい大切な女か、制欲処理のためのトイレか、その二軸で判断している。

 

そしてその判断は多くの場合が、初対面で決まる。

 

だから女はトイレにならないように、自分を磨け。

 

 

 

 

 

 

 

そういうとフェミニストの方々には怒られることはもうわかってるのだが。笑

でも現代的に恋愛がうまくいく確立を高めるためには、効果的な理論やと思う。

 

果たしてこれは、男性だけのものだろうか?

 

そんなことはない。

 

女性の中にも性のダブルスタンダードは存在する。

 

それは、結婚相手か、そうじゃないか、だ。

多くの女性は、大人になってからの異性の出会いに、『友情』は求めない。

これもまた、多くが初対面の印象で結婚相手に相応しいか、そうじゃないかを清潔感で見極める。

 

女性の清潔感という言葉は、女性のかわいいという言葉くらい、幅広い言葉である。

 

清潔感という言葉の中には、体型や顔や髪型といった容姿のみならず、話した感じのコミュニケーションまで含まれることが多い。

 

女性が清潔感を重視するのは、きっとその人の生活背景が見えるからではないだろうか?

 

これもまた考えないといけないことの一つだが、男は恋愛がうまくいくためには清潔感が重要である。

 

だからそのために自分を磨け、というのがおれの理論だ。

 

 

 

 

 

 

ようは、男性も女性も、ともに自分を磨け。ということ。

 

自分も磨けへんやつが、結婚した相手や、生まれてくる子供を幸せに出来ると思うな。

 

依存心にまみれたやつが、幸せになれると思うな。

 

書きながらなんかムカついて来たぞ!

 

それはおれ自身に対して、そしてこの社会に対して。

 

アカン、腹立つ!!!

飯食うしかない!!!

 

あーーーーーーーーーーん!!!!

 

 

 

 

2016年11月20日追記

 

なぜ『性否定の意識』が、性のダブルスタンダードを生むのかを自分で考える。

 

幸介の場合、親、特に母親がそうやった。

 

『性』に関すること、例えばテレビを見ていて、ドラマなんかで乳房の露出シーンがあると、「やらしっ!」とか言って、恥ずかしがる。

 

そんなことが幼少期に何度かあり、幸介も『性』について『悪いもの』『いけないもの』という前提をつくりあげた。

 

小学5年生のとき、初めて夢精を経験する。

得体の知れないことが自分の身体に起きていることに驚いたと同時に、

 

ネットで調べた結果、それか『性』に関することだとわかった瞬間、ひどい罪悪感に苛まれたことを覚えている。

 

その後は『性』に目覚め、オナニーをするようになるが、罪悪感が消えることはなかった。

 

中学に上がり、友達がエロ本を持ってきて騒いでいるときにも、幸介はその行為を悪しき行為だと思い、心の中でさばいていた。

 

『性』に関する授業が学校であったときに、とにかく恥ずかしかったことを覚えている。

映像を見せられて、ゴムをつけなさいだのと言われた気がする。

自分にはまだ関係のないことだと思っていた。

 

高校に入り違ったこと。

それは『性』に対するスタンスが、一部ではなく、みんな開けていたことだ。

 

AVの貸し借りが公然と行われた。

当時、紋舞らんという女優が流行っていたのだが、みんなが『モンブランがやばい』と言ってるのを聞いて、ケーキのことだとしばらく思っていた幸介は、おそらく『性』のスタンスを変えるタイミングが遅かったんだろう。

 

とはいえ、幸介の『性』に対するスタンスはそのタイミングで大きく変わったことは間違いじゃない。

 

大学に入り、一緒につるむ友達が、ナンパや合コン、サークルでSEXをした美談を語ってもあまりそこに興味は持てなかった。

 

それはでも、付き合っていた彼女と共依存の関係にあったからにすぎず、もしその存在がなければ、同じくそうしていたのかもしれない。

 

その後、別の女性と付き合い、別れた後に、

 

見事に女性を隔てた。

結婚対象の大切にする女性と、性欲処理のトイレに。

 

トイレは自分でも家族でもない。

傷つけていい、完全なる他者だ。

 

何人かのトイレで処理をしたときに、ふと思った。

 

「おれはなにをしてるんだ?」と。

 

それは相手に対しての罪悪感ではなく、自分の命や時間に対する罪悪感である。

 

それからはほとんどなくなったが、しばらくはやはり続いた。

 

自分で書いてて、ひどい男だと思うが、これは、上野先生いわく、世の中のほぼ全ての男性がそうであり、

 

幸介と同じく、社会と親から作られた、『性否定』の前提がつくりだしている。

現実ではなく、ほとんど事実である。

 

改めてなんとかせねばならないと思うが、

 

 

 

 

 

 

うーん

 

この社会に根付いた女性蔑視、ミソジニーからは、誰も逃れることは出来ない。

それは社会システムの中に重力のように瀰漫しており、あまりにも自明であるために意識することすらできない。

 

その通りやと思う。

 

そうか。

だから幸介もそうなり、女性を蔑視したけども、母だけは出来ず、母になりえる女性は大事に扱い、それ以外の女性を切り捨てるのか。

 

ふーん

うーん

 

これを理解することは幸せに近くのだろうか。

少なくとも、男女が人を好きになるまでのプロセスの背景は埋まった。

 

これを知った上でどう生きる?

 

女性蔑視を捨てることは出来るのか?

果たしてそれは、女性蔑視が前提の世の中で生きやすいのか?

 

その前提に違和感のあるフェミニストの方は、おそらく生きづらいし、イラつくだろうな。

 

女性蔑視する男性を、女性蔑視を自らつくりだす女性を、そして、そんな社会を。

 

これは根本的に変えられるテーマか?

 

直接変えるのは不可能。

性産業はこの前提で成り立つ。

 

男性側のみならず、女性側にもメリット、というか、それが生きる上での前提になってる。

 

 

 

 

 

んーーーー

 

やっぱりおれは、フェミニストではない。

 

これがいまの社会の前提であるならば、その前提をもって、どう対処していくしかまずは効果的な手段がない。

 

そうやな。

うん。

 

この背景を知ることは、特に付き合ったり結婚してからの人間関係に大きく影響する。

 

男性は女性蔑視の背景から、いまだに女性は家を守るべきだ、とか、家事は女性がするべきだ、とか、

 

そーゆー正しさを持ってる人が多い。

 

それもそやし、SEXについてもそうか。

AVにもこれが露骨に反映されている。

 

どこに使える?

男女の違いに使える。

 

そうそう。

以外大事なまとめ。

 

 

 

 

 

 

男女間において、生まれ持った違いは少ない。

もちろん生物学的な違いはあれど、能力的な違いはほとんどないに等しい。

 

では、なぜ大人になったときに、お互いのことを分かり合えないほどの違いが生まれるのだろうか。

 

それにはまず、大きな背景として、女性蔑視の前提が男性にも女性にも存在する。

 

その前提は、男性は己だけで、女性は男性に依存することで、自己を確立する。

 

日本で生まれ育った男女(両親も学校の先生もみんな)はそうやって育ってきた。

 

それが男女のコミュニティとコミュニケーションの差を生む。

大きな男女を生むのはココだ。

生い立ちだ。

 

だからこそ、女性のコミュニティで育った男性は女性的になり、男性のコミュニティで育った女性は男性的になる。

 

それを助長するのはおそらく、兄弟姉妹構成と、習い事や部活だ。

それらにより、人によって男性的女性的が大きく分かれる。

 

その違いが、大人になってから分かり合えないほどの違いを生む。

 

これを解決するためにはまず互いが違うことを知ることだ。

 

違いがあることを知り、認め合うことで、お互いを尊重するベースができる。

 

そして実際に尊重できるかどうかは、今度は愛するということができるかどうか、ということである。

 

つまりやね、大人になってからの男女の違いは、生まれ持った欲求の違いだけではない。

 

生まれ持った欲求の違いはあれど、生い立ちの違いが大きな欲求の違いを生む。

 

 

 

 

 

 

これ、上野先生もチームに入ってほしいけど、男女格差を助長するって怒られそうやな。笑

 

まぁそんときはそんとき。

さて次はつながりを考えねば。