高野山に供養にゆく。
命と、心の。
いろいろ感じて
一年前には余裕なく
見えないものが見えた。
空海の見てた世界を
高野山の在り方と
般若心経を通して
感覚的に理解できた。
なんとなく自然に
写経しようと思って
先にその意味を調べた。
はぁ、なるほど。
諸行無常。
すべては移り変わる。
『空』である。
そういうことだよな。
バガボンドと通じる。
仏教を通して
井上雄彦と通じる。
良いも悪いも
強いも弱いも
楽しいや苦しいも
すべては形がない。
はじめからそこに『在って』
同時に『無い』んだ。
なにか一つの物事や
なにか一つの出来事に
捉われてはいけない。
いや、捉われてもいいし
捉われなくてもいい。
森を見るように木を見て
木を見るように森を見る。
ようは『空』だ。
ようは『中庸』だ。
頭では理解した。
あとはこれを人間として
前提にできるかどうかだ。
そこには
とても大きな乖離がある。
乖離があるから
みんな修行したんだろうな。
みんな先に
『頭』は辿り着くんだ。
そこに
『心』を追い付かせるために
『体』を通して修行する。
千日回峰行をする気持ちも
今では理解ができる気がする。
それができさえすれば
全てのことに意味はなくなり
同時に意味を見出すことができる。
そこまでいけたら
人として一流だと思う。
いや、
そもそもが
一流も二流もない。
何にも捉われない。
点を見るように面を見て
面を見るように点をみる。
未来を見るように今を見て
今を見るように未来を見る
そういうことだ。
すべてはひとつ。
天地とひとつ。
諸行無常。
おれはたぶん
そのへんのお坊さんよりも
坊さんとして生きようとしてる。
心はもう
出家してるようなもんだ。