小さな星がほらひとつ

約束のネバーランドの話

問題が起きたとき、

相手のせいにすること

それが一番簡単。

 

誰もがみんな

責任なんてとりたくないから。

 

だから相手の非を見つけて

責め立てる。

責め立て続ける。

 

相手が悪い

という主張は

自分が正しい

という主張と同じだ。

 

でも

たいていの問題は

どっちか一方だけが悪い

なんてことのほうが少ない。

 

なのに

お互いがお互いの正しさの中で

相手を責めてしまう。

 

立場が違うから

意見が違うのは当たり前。

結果、争って貶めて

憎みあって。

 

それを続けるうちに

気づけば

お互いがお互いに

もうこれ以上傷つかないように

守りに入ってしまう。

 

お互いが守りに入ったら

もう対話は成り立たない。

 

相手のせいにして

相手に責任を押し付けつづける。

それがもっとも簡単な

自分を守る方法だということを

過去の経験で知っているから。

 

とはいえ、

どちらかに

大きい心の余裕があれば

話は別だ。

 

余裕のあるほうが

相手の見てる世界を

理解しようと努め

まずは一方的であっても

歩み寄ることができるから。

 

しかし、

両方に余裕がなくなり

一度でもお互いが

自分を守るところ立ってしまうと

なかなか抜け出すことが出来ないし

そこから相手の立場に立つことは

ほんとうに難しい。

 

なぜなら

人間はみんな、弱いから。

相手の責任にするほうが

なんの責任も持たずに済むから。

 

自分の正しさの中にいる内は

安全で守られていて

今以上に傷付かなくて済むから。

 

だからわかった。

そうなった以上は

相手目線に立つことを

まず手放してみる。

 

相手目線に立つのではなく

それぞれの立場を差し引いて

物事をまずフラットに考える。

 

頭の中で考えるのではなく

紙に書き出して

事実と

感情を

客観的に整理する。

 

そうしたら

本当はどっちも

憎みあいたくなんかなくて

 

ただ笑って生きたいだけ

ただ仲良く生きたいだけ

ただ楽しく生きたいだけ

 

ってことに

気づけるはず。

 

憎んだり

恨んだり

恐れたり

疑ったり

 

そんなことを

もうしなくていいんだって

相手は敵じゃなくて

味方なんだって

お互いがお互いに

がんばりあってるって

気づけるはず。

 

ただ難しいのは

片方だけがそこに立っても

何の意味がないということ。

 

ふたりが一緒に

同じタイミングで

そこに立たなければ出来ない。

 

2人で一緒に

フラットにみる努力をする

そんな場が必要だ。

絶対に。

 

この

『同じタイミングで』

というのが

ほんとうに難しい。

 

同じタイミングで

そこに立たことができるのは

時間の長さの問題ではなく

勇気の問題。

 

相手の責任にしている

弱い自分を受け入れて

その時間をつくる

勇気をお互いが持てるかどうかだ。

 

過去に囚われず、

自分はできるし、

相手もできると、

信じる前提を持てるかだ。

 

お互いがそう思えてはじめて

そんな対話は成立する。

 

どんなときでも

どんなところからでも

傷つくことを恐れず

その場に立とうとする勇気を持つ。

 

それが、

お互いが守りに入ってしまったときの

『やったやられた』という

自分の正しさを主張し合う

シーソーゲームから抜け出す

たった唯一の方法だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ということを

約束のネバーランドから

学んだ話

 

エマは強かった。

勇気の塊みたいな主人公だった。

もっかい読んでから寝よう。

勇気をありがとう。