2014年に放送された、『僕がいた時間』というドラマがある。
普段テレビを見ないおれが、勧められて観たドラマ。
久しぶりに最終回を観た。
http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=hoshipi324&prgid=s51409276?ref=mfooter&lot=pcv
主人公はALSという病気で、徐々に筋肉が弛緩していき、最後は死んでしまう。
学校から講演を依頼され、病気が進行しているため、車椅子姿で学生に講演する。
以下、講演中のセリフを抜粋。
「病気になる前は、自分が生きる意味を考えなかった。
大学4年生のときに友達が自殺したが、『死』は自分とは無関係のものだと思っていた。
でも病気になって、自分が生きているだけで周りの人に世話をかけていると思った。
そこで考えた。
生きるってなんだ?
死ぬってなんだ?
僕にとってはどちらも辛い。
どちらを選ぶにも勇気がいる。
でも生きることに決めた。
病気は僕から多くのものを奪ったけど、与えられたものもある。
それは愛。
家族からの愛。
彼女からの愛。
そして人生の目標をもてたこと。
医学部に入りたい。
あとは、死ぬまでにもっと多くの人に自分の話をしたいと思う。」
改めて思った。
人が本当に幸せになるために、まず取っ払わないといけない前提は、『自分がいつまでも生きる』じゃないかな。
その前提があるからこそ、平気でやりたくもない仕事に時間を費やし、健康を損なっても働いて疲弊し、あらゆる人間関係を壊す。
この前提だけではないが、たぶん、根本はそうだ。
そう。
おれはたぶん『死』というものを受け入れている。
命あるものはみな死ぬと、少なくとも理解していて、いつも頭の片隅にある。
だからミッキーの世話をすることの優先順位を上げられたんかな。
犬は寿命が短い分、『死』が人よりも近い。
うんやーーー
受け入れてはないのかもしれん。
でも、向き合っているのは確かだ。
こないだ、友達と劇を見た。
http://www.kuzukawa-shichosha.jp/bui/
戦中を描いたストーリーのテーマは『死』
画家の主人公が、結核にかかって死に行く妻に向き合う様が演じられた。
4時間にも及ぶ長丁場の舞台は、妻が事切れ、主人公が『おいー!!死ぬなー!!!!』と、溢れんばかりに咆哮するシーンで幕を閉じる。
その迫真の演技に、多くの人が共感して泣き、会場はスタンディングオベーション。
おれは一人、共感できないまま、周りに合わせて居心地悪く立っていた。
感情移入はしていた。
でも共感は出来ない。
なぜなはおれは愛する人の死を、きっと否定しない。
その人が生きてきた人生を全て肯定し、受け入れ、安らかに眠りについてほしい。
そんな価値観がハッキリと自分の中にあることを初めて知った。
だから主人公とおれは真逆の行動をとるだろう。
穏やかに、穏やかに。
だから、共感ができなかった。
もちろんこれはおれがエライとか、正しいとか、一切そういう類の話ではない。
ただただ、マイノリティ。
ただそれだけの話。
いや、そう書いておきながら、おれはおれのほうが『正しい』と思っている。
生きること。
死ぬこと。
そこを無視せずに向き合っていたならば、『死』というものはそこまでこわいものではないはずだ。
いや、『死』はもちろんおれもこわい。
でもそれは死ぬこわさよりも、『死』というものが『痛み』や『苦しみ』と親戚だと思い込んでるからだ。
だから安楽死できるなら、おれは死自体はこわくはない。
ただ、いままで出逢ってきた大切な人たちと別れる『寂しさ』は強くある。
願わくば、大切な人たちに囲まれて安楽死できますように笑
高校の友達の結婚式に参加するために京都に向かう新幹線に乗る。
この2ヶ月で結婚式に4件、招待してもらった。
参列するよりも、呼んでもらうこと自体がありがたい。
結婚式はおれにとって価値ある娯楽だ。
さぁ、最大限祝うよ!